円融weblog

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現在の死亡原因のトップは癌で、二人に一人は癌になるという遠因が本当に一時期の核実験にもあるならば、事故後の関東の放射線量を真に受けて考慮すると将来的にかなり高い割合で癌を発病すると思える。

母が料理してくれた椎茸も被爆してるかもしれない、水も、寿司も、しかし個人的にはこの現状に、責任の所在を求めて憤る気持ちには全くならない。原発を作った人?その潮流を生み出した人?政府?政治家?その一人一人をたとえ直接見つけ出すことが出来たとして顔を合わせたとしたも、たぶん期待してるような諸悪の根源は見当たらないだろう。

むしろ根源は個人にはない。組織?じゃあ組織の実態とは?もっと解体すれば、悪ってそもそもなんだ?誰にとっての悪か?絶対悪なんて全く信用できない。


じゃあ、この母が出してくれた料理に入った椎茸を見つめて湧き上がる虚しさはなんなのか?個人にも組織にも政治にも根源的な原因は見出せないだろう。もはや一点の人やモノだけに原因と責任を見出して、問いただせるほど事態が単純であるとはとても思えない。

ではそこに実感としてあるのはなにか。それは、人間の営みそのものの中にある。人間が紡いできた大量の産物が、宿命的に背負って生じたエラーだろう。コントロールできなくなった事象が、巡り巡って人間を追い詰めている、現象としての事実だけだ。
人間は一人ではなにも生産しない。人が集まることで物事の細胞分裂がはじまる。
人類という集合生命体に、癌細胞のようにジンワリと拡がる手に負えないエラーは、憤りや責任論では手に負えないほど、巨大で実体のない、最も厄介な課題である、ということを強く感じる。

彼らを擁護する意味では全くないが、政府や首相、企業を糾弾するのはイマイチずれて見えるし、それらを糾弾し批判する事は生産的どころか、単なる消費行動にしか思えない。

究極的には、脱原発の行動を起こそうが、日本を脱しようが、あるいは被爆を受け入れてこれまでどおり生きようが、はたまたなにも知らずこのまま生きて、被爆するかもしれないししないかもしれない。それでもそれぞれがそれを結局どう受け入れて収めるか、そこがこの問題の、現実的な数少ない帰結点ではないかと、なんとなくいつも思っている。

ひさびさの投稿でした。
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テスト
テスト
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頼るものが増えるばかり

モバイルから投稿する環境が整った感じで、これからちょいと更新頻度上がるでしょう。




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河原町モンスーン
 



 昨年も行いました、伊左治門下を中心とした作曲家のメンバーによる新作演奏会、「河原町劇場Vol.2」。ことしもやります!

 僕は、
伊左治2作品、川上、小出、津田、新美、藤井の各作品の、計7曲出演します!

それぞれ強烈に個性やこだわりの強い作品ばかりですが、不思議とどこか空気の繋がっている感じのする、妙味あるコンサートだと思います。

共演のお二方も素晴らしいプレイヤーで、当日、同仁キリスト教会に異様なモンスーンが吹くこと必至でございます。

お誘い合わせの上、是非おこしください!

2010年11月05日(金) 19:00開演 同仁キリスト教会(東京都)


Flute:生明麻衣子
Piano:浅井由紀
Violin:亀井庸州
作曲:
伊左治直、川上統、小出稚子、津田宗明
新美桂子、藤井健介、平野太滝

作曲家・伊左治直を招いての、若手作曲家による新曲発表を中心とした演奏会。

入場料:3,000円




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来た!!
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ヴィオラダモーレ入手。
これから遊ぼう

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メモ
一元的な「正義」と、一元的な美の観念の関連性。

包括的に捉えたとき、心をつき動かすものの根源とは、印象に残るか否かで、その上に、美であるか否か、の提起が含まれる。

とするならば、表現に求められるものは、一元的な、美、だけではなく、あらゆる印象があり得る。すなわち、印象の濃淡、が表現の絶対的な価値となる。


一元的な美、のみを認識しようとする傾向は、社会通念上の、正義は一元的なものである、と捉える観念と無関係ではないかもしれない。

西洋文明での、一元的な正義論が台頭する以前の社会においての、善き表現、作品、現象というものを探る必要がある

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宣誓


 ひどいもんで、全然更新していないまんま四半世紀が過ぎようとしています。


 モバイル環境から投稿できるようにいろいろ整理していく予定。
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ビナ行こうビナ。


ここ1ヶ月バタバタしておりすっかりご無沙汰しております。

先週は海老名にて、ロングラン中のピアノトリオ組曲「甲殻」抜粋版を演奏してきました。
今年初甲殻です。

演奏する前にメンバーとも、「もう何回演奏されてきたかねえ。10回はやってるね」とか話してましたが、作曲されてわずか2〜3年で十数回以上再演される新曲はめったに無いのではないでしょうか。
コンサートホールはもちろん、幼稚園、ライブハウス、老人ホーム、いたるところでやって、常に人気もののプログラムです。
弾いてても色褪せないどころか、毎回最大限に挑戦させられる曲。なのに誰にでも聴きやすい。

今回は耳の聴こえない方々のための体感音響システムを使ったコンサートで演奏でした。


帰りに3人で海老名のヤバいショッピングモールでメシを食った写真。

ビナウォークのビナは、海老名の業界用語的呼び方だと勘ぐった思い出。

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外を知り、中を知る
明治の維新の直後、新たな国家としてスタートしたばかりの、新風に湧く社会の気運のなかで、俳人正岡子規は「功名は金持ちや貴族の専有物ではない。学べば我々庶民の子も公卿になることができる」
「私どもは公卿になることのみを欲しないが、しかし社会の上流に立とうと思っている。それには学問を勉強する以外にない」
と書いている。

自分が実際ヨーロッパに留学したときに一番大きく感じた違いの一つに、「知識」に関しての価値観というのだろうか、社会での「知識」の重要さの違いがあった。


日本では他人より「知っている」ことが絶対の武器になり、それを寄りどころにする人はどこまでも知識という道具にものを言わせたがる。
そして「知らない」者はそれを恥として、「知っている」者の一方的な支配下におかれるという構造に自ら入り込むことを辞さない。


音楽家においても同様なことが起こっていて、知識と実力があたかもイコールであるかのように錯覚されることすらある。

日本の独特な風習だと思うのだけど、あるツールに対して、その用途以上に過大な価値を付加させるの傾向が強い。

日本では、外国語が話せることが、「外国語が話せる」以上になにかとてもありがたい存在であるようにすら思われがちだけれども、対局的な言い方をすると、ヨーロッパでは外国語が話せることは、「外国語が話せる」以上でも以下でもない。土地を接する相手と通じるための、つまり単なるツールに過ぎない印象がある。


ずば抜けて有能な音楽家も、知っていることは知っているし、知らないことは知らないだけであって、以上でも以下でもない。
まあ、正直そういう温度の無い欧米の合理的感性もそう大好きじゃないけど、結局、かれらは実際の生活や活動において、「知識」から自由であって、自立している。
比べると、こと、「知識」において重要な上下関係を示そうとする日本の発想は、発展性に乏しく感じることが多々ある。

そんなことを感じていた折に、冒頭の子規の言葉を読んで、大きな合点が行くような気持ちがしたというところ。

そうかあ、日本で崩壊した、江戸まで培われてきた「階級」という意識の破片が、結局は「知識」というレンガになって身のまわりに散らばっているんだな。

そしてその呪縛と怨念に怯えている。

維新から百年以上たっても、西洋列強を見習え、追い越せ、という幻想から自由になれていない。

外を見過ぎだ。

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2009年
昨日で本年デカい仕事終了。KONTAさんのワンマンライブのサポートでしたが、アドリブひさびさで気合い入った…

ベルギーにいたころ何人かジャズヴァイオリ二ストに出会った中で、一番強烈な印象に残っているのがリエージュの街中にあった飲み屋で弾いていた、ピアノとヴァイオリンのアドリブデュオ。
年同じくらいのやつだったんだけど、空間も含めてあれを超える凄まじいアドリブヴァイオリンに出会ったことがないし、密かに目標にしている。

今日はfじいくんのパンク。ドン・キホーテ見に行きます!
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