円融weblog

<< January 2010 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

ビナ行こうビナ。

TS3K0163.jpg
ここ1ヶ月バタバタしておりすっかりご無沙汰しております。

先週は海老名にて、ロングラン中のピアノトリオ組曲「甲殻」抜粋版を演奏してきました。
今年初甲殻です。

演奏する前にメンバーとも、「もう何回演奏されてきたかねえ。10回はやってるね」とか話してましたが、作曲されてわずか2〜3年で十数回以上再演される新曲はめったに無いのではないでしょうか。
コンサートホールはもちろん、幼稚園、ライブハウス、老人ホーム、いたるところでやって、常に人気もののプログラムです。

弾いてても色褪せないどころか、毎回最大限に挑戦させられる曲。なのに誰にでも聴きやすい。

今回は耳の聴こえない方々のための体感音響システムを使ったコンサートで演奏でした。


帰りに3人で海老名のヤバいショッピングモールでメシを食った写真。

ビナウォークのビナは、海老名の業界用語的呼び方だと勘ぐった思い出。

外を知り、中を知る

明治の維新の直後、新たな国家としてスタートしたばかりの、新風に湧く社会の気運のなかで、俳人正岡子規は「功名は金持ちや貴族の専有物ではない。学べば我々庶民の子も公卿になることができる」
「私どもは公卿になることのみを欲しないが、しかし社会の上流に立とうと思っている。それには学問を勉強する以外にない」
と書いている。

自分が実際ヨーロッパに留学したときに一番大きく感じた違いの一つに、「知識」に関しての価値観というのだろうか、社会での「知識」の重要さの違いがあった。


日本では他人より「知っている」ことが絶対の武器になり、それを寄りどころにする人はどこまでも知識という道具にものを言わせたがる。
そして「知らない」者はそれを恥として、「知っている」者の一方的な支配下におかれるという構造に自ら入り込むことを辞さない。


音楽家においても同様なことが起こっていて、知識と実力があたかもイコールであるかのように錯覚されることすらある。

日本の独特な風習だと思うのだけど、あるツールに対して、その用途以上に過大な価値を付加させるの傾向が強い。

日本では、外国語が話せることが、「外国語が話せる」以上になにかとてもありがたい存在であるようにすら思われがちだけれども、対局的な言い方をすると、ヨーロッパでは外国語が話せることは、「外国語が話せる」以上でも以下でもない。土地を接する相手と通じるための、つまり単なるツールに過ぎない印象がある。


ずば抜けて有能な音楽家も、知っていることは知っているし、知らないことは知らないだけであって、以上でも以下でもない。
まあ、正直そういう温度の無い欧米の合理的感性もそう大好きじゃないけど、結局、かれらは実際の生活や活動において、「知識」から自由であって、自立している。
比べると、こと、「知識」において重要な上下関係を示そうとする日本の発想は、発展性に乏しく感じることが多々ある。

そんなことを感じていた折に、冒頭の子規の言葉を読んで、大きな合点が行くような気持ちがしたというところ。

そうかあ、日本で崩壊した、江戸まで培われてきた「階級」という意識の破片が、結局は「知識」というレンガになって身のまわりに散らばっているんだな。

そしてその呪縛と怨念に怯えている。

維新から百年以上たっても、西洋列強を見習え、追い越せ、という幻想から自由になれていない。

外を見過ぎだ。

2009年

昨日で本年デカい仕事終了。KONTAさんのワンマンライブのサポートでしたが、アドリブひさびさで気合い入った…

ベルギーにいたころ何人かジャズヴァイオリ二ストに出会った中で、一番強烈な印象に残っているのがリエージュの街中にあった飲み屋で弾いていた、ピアノとヴァイオリンのアドリブデュオ。
年同じくらいのやつだったんだけど、空間も含めてあれを超える凄まじいアドリブヴァイオリンに出会ったことがないし、密かに目標にしている。

今日はfじいくんのパンク。ドン・キホーテ見に行きます!

エルネストに告ぐ

 エルネスト・ショーソンのピアノ四重奏曲を演奏した。

浅い言い方をするならば、非常に高カロリーなフォアグラを調理した感覚に似ているけれども、シェーンベルクやワーグナーのオペラのようなあのスケール感を実現するにはピアノカルテットという編成はギリギリの小編成だと思う。

結局、感覚でしか説明できないレベルで譜面を読んでいるようだと、あの複雑な音程関係の作業に埋没して直感というのは表出できないで終わってしまうのかな。

あと一回本番あるからがんばろう。熱にうなされたようなあの時代のファッショに浸るにはもう一息!

本当にあった怖い話

以前にくらべて、最近テレビでいわゆる「怖い話系」の番組をそれほど見なくなったと思うのだけど、テレビだけでなく実生活でもあんまり「怖い話」がウケそうな雰囲気を、以前ほど感じない気もする。
人がスレたのかな。
たぶん現代人の心にも生活にも、隙間が減ってきたからだろうと邪推する。

密集

普段移動するとき、いかに新宿や渋谷などターミナル駅を通らず済ますかに尽力しているのだけど、こうしてバスや私鉄で人の少ない経路を移動できると疲労度が断然違う。
その上時間も短縮でこることがある。

東京に登ってきて生活している日本人がさらに東京の使い方を熟知するような時代になったら、人のうごきも分散するだろうな。まあ、逆に言えば東京全体がターミナル化するというか、今まで局地的だった東京のターミナル部が東京全体に拡大するというか

以上、朝の妄言でした。

心気一転

  
しばらくご無沙汰してしまったのですが。
この10月はまさに真空のような期間で、なにかが動き出す前触れです。

ということで、突如舞い降りたお話で、音楽教室で教え始めることになりました。
けっこうな頻度です。
とはいえ生徒さんを集めないと忙しくもならないんだけど、いちおう演奏の斡旋もしてくださるところのようで、生活安定にも一歩前進っす。


が  
    

   ん 
 ば 

      
     ろ  
  
 う
  

  
! 
    ! 
      
  !

アーリーお知らせ


 こんばんは。

直前ですが明後日、古楽好き仲間で趣味的コンサートやります。 
鉄道マニアで言えば、みんなでNゲージを持ち寄ってジオラマで走らせようみたいなノリです。いや、もっとちゃんとしてる 


今回挑んでいるのは、1600年代初頭のイタリアの音楽です。日本で言うと江戸幕府が開かれたころ。

その数十年後に出てくるバッハとかいうゲルマン人とかに捕縛される以前の、まだまだ伸びやかで隙間のたくさん残っていた音楽。 

1600年代のはじめ、カメラータ・バルディによって興ったバロック音楽の流れに乗って、イタリア各地から現れたヴァイオリンのファンタジスタたちが、最新の楽器であるヴァイオリンの可能性を追求しながら、めくるめくトリッキーさとユーモアに溢れた音楽をひっさげて欧州を歴訪していたわけですが、 
ビアッジョ・マリーニ(1594–1663)も例に漏れずその一人で、ヴァイオリニストである自分の可能性を拡げつつ、アドリブや変則調弦も駆使してバリバリ活躍していたらしいです。 


趣味の古楽 
ストロッツィの声楽作品とマリーニの器楽作品をあつめて 

澤村翔子(メゾ・ソプラノ) 亀井庸州+安田貴裕(ヴァイオリン) 
多井智紀(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 榑谷学(チェンバロ) 

2009年9月21日(月・祝) 午後3時開演(午後2時30分開場) 
ミュージション新江古田コンサートホール[東京都練馬区豊玉中2-1-13] 
全席自由 前売と予約2,000円/当日2,500円 
お問い合わせとご予約 m@krtn.jp 

→→→曲名詳細と、会場地図は<http://krtn.jp/m/>まで。 
(プログラムはもう少し変わるかも知れません…) 


お待ちしてます!

ぱなしのはなし

 の豊田エリーってこがかわいいなあ。。

一回ハーフの超かわいいこと付き合ってみたい。性格がぜんぜん合わなくても良いから。


政治について書く。

 過日選挙があったのは承知のとおりで、いまや巷は政権交代の大号令に沸いていますが、僕にとっては折からなんとなく思っていたことを再認識する機会でした。


 音楽家は政治や社会に関心を持つべきか、もしくは関わっているべきか、これは人それぞれの主観や生き方であって、どういうスタンスが音楽家の質の良し悪しを図るベクトルになるという話じゃないけど、どれだけ自信たっぷりにこれが自分の音楽だと言い放って満足顔をしていたとしても、自分の暮らす社会風土のもつ潜在的な支配力からは根本的には自由ではないと思っている。

たとえば毎日無意識に使う電車のつり革の質感、車のボンネットのデザイン、道路の舗装の表情、道路標識の色彩、建売住宅のパターン化された壁面パネルの印象、そういうすべての国土の風景が、そこに暮らす人々の無意識の視覚の基準になってくる。
そういうハードウェアの面もさることながら、もちろんテレビの存在は特に日本の場合は強力なパワーを持つし、表層的な基準というのはこの場合当然ながら人間の感性にも直接入り込んでくるものです。

 西ヨーロッパには西ヨーロッパの、独特の「現代の」表情があり思考パターンを生み出している。
音楽には西側独特の「音」が流通する。

 こういうことはベルギーに暮らして、いわゆる西側と言われる国々を周ったときに特に強く感じたことなんだけど、西側独特の感性というものが確実に存在する。
日本も例外ではなくて、結局これらの直接的なルーツは政治的な大きな流れのやりとりや、選択によって変えられてきているわけで、われわれはある意味でそれを受け入れる側でしかない。もちろん、そこに選挙だとか、というものがある。ただしこれもイベントでしかないと言ってしまえばそれまでだけど。

 でもここまで大きい力を持っているものに対して、「だれがなっても同じなんじゃないの」とか、窪塚みたいに「似たようなジジイがいつまでも同じことやってる」とか暇そうにカッコつけた事言ってる場合じゃなく、思っている以上に重いことなんだと認識したほうが良いと思う。
とくに音楽をやるものにとっては、将来的な自分の音楽の「音」を作る一番おおもとの作業だという思いで、実際俺は投票に行った。

どうせ受け入れるしかできないなら、せめて熟考するという作業を一人ひとりが行うっていうのは、結果としてフェアな関係を作り上げることに繋がると思うんですがいかがでしょうか。


ガマンのガン

 
 自分の直感や感覚を塞ぎこんでガマンな人生を送っているとガンになるらしいですね。

 といって「だから私は欲求や直感に素直に生きるのよ」のような人間はただのわからんちんだと思いますので、そういう欲求不満婦人的二元論ではない、風通しの良い生き方をしたいものです。


 さて、またもや終わってから書くことになっちゃうけど、昨日の公園通りでの南米クラシックの夕べは、「南米」というどこか気楽な響きとは妙に対象的に、意外にも綿密で緊張感のあるコンサートになったような気がします。

 ヒナステラ、ヴィラロボス、ブローウェル、どの曲も奔放で直感に満ちている、という以前に、その前提に西洋音楽的ロジックが張り巡らされているために、その奔放なカオスを整数で構築していくという複雑な作業を要求されるんです。
意外にも南米の勤勉なクラシック作曲家たちは、きびしいです。20世紀って、歪んだ時代だなあ。


今日は今月末に行われるある作品のためのレコーディング作業でした。
本番では僕の身体は出演しませんが、あの平成ウルトラセブン似の凄腕ヴァイオリニスト氏と舞台上で共演させていただきます!
かなり必死でしがみついてやったので舞台上の演奏家の方はやりにくいかもしれないけど・・

作品はそうとう面白くてかっこいいので、9月26日気になる方は↓へどうぞ